“ココシャネル”と聞いて、その名を知らない者はいないだろう。

20世紀初頭からファッションデザイナーとして活動し、彼女の創設した「CHANEL」は今日においても誰もが知るファッションブランド、女性の憧れの的としてその権威を保ち続けている。しかしながらその名ばかりが先行してしまい、なぜ語り継がれているのか、広く知られていないのも事実である。

今回、私は彼女の成し遂げた偉業を解説することで、少しでも多くの人に知らしめていきたいと考えている。

女性性の解放-リトルブラックドレス

彼女の行なったクリエイションの中でとりわけ有名かつ大きな意味を持ったのが1926年に発表した「リトルブラックドレス」である。現代において、少しずつアレンジを重ねつつもその型を保ち、今日まで引き継がれている。

このドレスの特筆すべきところは、動きやすさを重視したシンプルなデザインで、それまでの女性服で重要であった装飾性を取り除いた点にある[1]。現代を生きる私たちから見てこのドレスはなんの変哲もない、面白みのないドレスにしか見えないかもしれない。しかしながら、当時を生きた女性にとっての「モード」を考慮すると、その特異性に驚かされる。

19-20世紀転換期のベルエポックと呼ばれた時代、コルセットでウエストを極端に細く締め、女性らしいS字型シルエットが流行した。1906年、ポールポワレがコルセットを除いた、シンプルかつ直線的なシルエットを打ち出したものの、実際に人々の間にシンプルなルックが広まったのは第一次世界大戦後、シャネルの提案したリトル・ブラックドレスの時代であった。

黒の起用

シャネルが黒を用いたことにも大きな意味がある。このドレスが発表される以前、西洋の社会に多いて黒は19世紀の文明社会と結びつられ、労働社会を生きる、男の色として捉えられており、[2]。それら諸概念をひっくり返す衣装としてもシャネルの提案した衣装は革新的であった。

当時のファッションにおける常識に反するデザインであったにもかかわらず、シャネルのドレスがそれほどの影響を持ち得たのはなぜなのだろうか。勿論、快適ながらファッショナブルであるという二面性を兼ね備えたという点は表面的な理由として挙げられるだろう。しかしながら、それではポールポワレに、シャネルほどの普及が実現されなかったことに説明がつかない。

どのようにして人々に受け入れられたのか

れほどの影響を持ち得たのはなぜなのだろうか。勿論、快適ながらファッショナブルであるという二面性を兼ね備えたという点は表面的な理由として挙げられるだろう。しかしながら、それではポールポワレに、シャネルほどの普及が実現されなかったことに説明がつかない。

一つの要因として、第一次世界大戦を通して顕著となった女性の社会進出、「ギャルソンヌ」の概念が挙げられる。

「ギャルソンヌ」とは1922年ヴィクトール・マルグリットによって発表された同名の小説で描かれた女性像のことであり、フランス語におけるGarconsの意味する少年のようなルックのことを言う。

この文学は、第一次世界大戦後の、新しい女性像を示す概念として大きな意味合いを持った。大戦を通し、社会進出が進んだ女性の立場を示すものとして、大きな注目を浴びた。また、ファッションの面においてももたらした影響は大きかった。

短い髪に釣鐘型の帽子、シンプルな直線的シルエットの膝丈ドレスを合わせる、文字通り少年のようなスタイルをパリのモードにもたらした。シャネルの提案したリトル・ブラックドレスはまさにこの概念と重ね合わされ、人々から受け入れられていったのである。


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